学費闘争を沈滞の突破口にby 高杉公望)

 グローバル化のもとさまざまな社会運動が世界的に盛り上がっている中で日本だけが沈滞している。日本社会でも不満と不安は徐々に募ってきているが、既存組織の情勢認識と運動方針がまったくトンチンカンなのである。日本社会のあらゆる分野の運動の旗印がそうした既存組織に支配されているために、「無党派層六割」現象を生み出す結果となっている。

 この情況を突破するには「無党派層六割」にとって切実な問題を旗印とし、かつ、容易に勝利の成果を獲得できる課題を設定することだ。それにより沈滞しきった日本の大衆運動シーンにおいて、まずはささやかな成功体験を全国政治においてもたらすことが肝要だ。だが当然、前者の条件を満たすものは多いが、後者を満たすものはあまりない。

 ところが現在、デフレが続き年金支給額まで物価スライドで減額されようとしているのに、国公私立を問わず学費は値上げされ、また奨学金制度が改悪されようとしている。日本の国立大学の学費50万円は先進諸国の中では異常な高さにある。英仏独はほとんどタダ、米国は州立30万円台、小泉改革がモデルとするニュージーランドでさえタダから5万円にあがったにすぎない。これは政策的な体系性が破綻したきわめて異常な事態である。なぜこのような事態が発生しているのかの分析も興味深いが、それは措いてまず実践において政府を追及すれば確実に勝利の成果を獲得できる稀有なケースである。いわば敵失である。

 これを放っておけばいずれは修復されてしまうであろう。しかし、それまでの間、十数年もしわ寄せは確実に弱い立場の家計にゆく。そして、結局は国家が曖昧に取り繕って終わりになる。だが、これを学生、保護者さらには教職員が主体となった大衆運動を通じて、下からの突き上げによって全国的政治課題の問題解決を達成すれば、それは沈滞しきった日本の大衆運動にとって歴史的な成功体験となるであろう。「一点突破全面展開」ではないが、この成功体験を足がかりに、世界的に盛り上がっている大衆的な社会運動のうねりから日本だけが取り残されている情況に対する突破口が開けてくるのではないか。

 

 今日、大学改革を語る言葉は硬直している。そこには二つのパターンしかない。一つめは「大学の自治」「学問の自由」を守れ、という空虚なスローガンである。二つめは産業技術立国のために大学はもっと競争的環境のなかでビジネスに役立つ研究・教育をやれ、というものである。しかし、この二つのことがあたかも二項対立のように現れていること自体が日本社会のあらゆる思考、言説の硬直化を如実に示している。もしいささかでも自分の頭で問題にたいして柔軟に考えをめぐらせたならば、先の二つのパターンが二項対立のまま両極に対峙し続けていることは不可能なことに気づくはずである。「大学の自治」「学問の自由」もなしに独創的な発明・発見などでてくるのか。税金や補助金や学費を負担している産業界や一般民衆やになんの恩恵もないところで「大学の自治」「学問の自由」などというものが社会的な承認を受けられるのか。こうした当たり前の疑問は政党、官庁、組合等々の会議、運動の場でもマスコミでもあらかじめ封殺されている。ようするに、既存の言説にまきこまれて物事を考えたり語ったりすれば、それは必ず既存の党派的な立場性に固着してしまうことを意味している。

 実際これら二つの立場性がいかに現実離れしたイデオロギー的なものにすぎないか。ここで日本の大学をめぐる実態について官庁資料から直接引用してみよう。

 

 「高等教育への公財政支出の対国内総生産比は、日本0.5%、アメリカ合衆国1.1%、イギリス0.8%、フランス1.0%、ドイツ1.0%であり、このほかのOECD諸国と比べても我が国の数値は最も小さい。この要因としては、公財政支出全体が小さいことのほか、我が国の高等教育が私学を中心に普及していることなどが考えられる。これを大学在学者に占める私立大学在学者の比率から見れば、日本が77.5%(2002年)であるのに対し、アメリカ合衆国は35.1%(1999年)であり、フランスやドイツでは私立が極めて少ない。また、イギリスの高等教育機関は、中世以来、大学が伝統的に国王特許の形で設立されているため、形式面では私立に分類される場合もあるが、運営費の大半を公財政で負担しており、実質的に国立として機能している。」(文部科学省『教育指標の国際比較 平成15年版』より)

 

 日本では高等教育への公財政支出全体がきわめて少ない。また私学の比率が高く圧倒的に学費は親や本人が負担している。しかも私学の学費は国公立よりも高く、国公立の学費自体が異常に高い。イギリスでは奨学金制度などによって私学といっても事実上親や本人の負担はタダである。

 このような中でさらに大学のリストラ、コスト削減に拍車をかけようというのが国立大学の独立行政法人化の政策である。わたしは何もここで教授会特権擁護派にくみするようなことをいいたいのではない。彼/彼女らはとうのむかしに外堀も内堀も埋め尽くされているのに、淀君/大野治長もびっくりするような空しい虚勢を張っているのにすぎない。それは引用された数字だけからも明らかだ。そうではなくて、産業技術立国に資するためには産業界や一般納税者はもっと大胆に資金を高等研究・教育に回さなくてはならないということをいいたいのだ。

 もちろん、それは大学の特権擁護派の教員層に無駄金を流すようなやり方ではだめだ。国公私立をとわず学生の学費を無料に、あるいはそれに等しくなるような奨学金制度を創設せよ、というのである。これは何も現実離れした空想的なことを要求しているのではない。たんに西欧諸国や米国なみに制度を整えよというだけのことである。

 大学という機関に直接資金を配分すれば、大学ごとにさまざまな派閥が支配しており、みずからの特権擁護の構造を温存したままバブル的な資金の過剰によってますます腐敗の度を深めるだけのことである。投ぜられる資金は確実に無駄金になる。それは誰にでもわかっている。ではどうすればよいのか。

 膨大な資金を直接大学に流すのではなく、学生に奨学金として配分し、学生の手から大学に学費として支払われるようにするのである。そうすれば、大学側は教育サービスの向上に努めなくてはならなくなる。それだけではなく学生が選択のさいに魅力を感じるだけの大学としての声価を維持するために世間に通用する研究水準も維持するように努めなくてはならなくなる。しかも、その結果として学生にとっては事実上、学費がタダという状態になるわけである。

 もっとも財政破綻のなかそんな財源はあるのか? それは心配には及ばない。なぜなら以上の措置のために必要な額は多く見積もっても年々23兆円にしかならない。これに対して、公共土木事業費は70兆円近く(2000年度の国、地方、財政投融資の合計額)、そのうちほんの3%程度を削減して大学政策に配分すればすむだけの話だからである。しかもおなじ額の財政支出でも、今日では土木事業よりも教育、医療、福祉分野のほうが乗数効果が高くなっており景気下支え効果としても有効なことは試算によって明らかにされているのだ。

 

 日本では国立大学ですら学費はアメリカの州立の二倍近く、近年大幅値上げをしてきたニュージーランドの十倍、事実上無料の西欧諸国とは比ぶべくもない位の超高額である。この根本的に異常な状態を変革することを学生も保護者も教職員も一般社会も大声でがなり立てるべきである。ここではもはや中味を展開する紙幅はないが、奨学金制度による学費無料化だけでなく大学入学の無試験化、旧帝大などの一部の特権的エリート大学はハーバード大学型の「私立大学」化(=学費は数百万円)、官僚統制の徹底排除等々をセットにした整合的な改革プランのもと、政府の破綻した教育政策を追及する全国的な大衆運動が起これば、これは必勝というほかはない。それが結局は産業界の悲願である産業技術立国に矛盾することのない大学改革にもつながると、余裕の笑みを浮かべながらである。

(アソシエ21 ニューズレター 2003.3

 

リアルな共通利害の摘出を

 

 国立大学の「独立法人化」の問題は、教育や大学をどうする、といったこととは一切無縁なところから、「国家公務員25%削減」の数合わせの手品の種としてだけ浮上してきた。あまりに馬鹿らしくて、賛成とか反対というレベルの問題ではない。私学化よりも「独法化」のほうがはるかに悪いのは、それが官庁の天下り先の特殊法人と同じような立場に置かれることになりかねないからである。偽の「行政改革」によって焼け太りのようにして肥大化することとなる「文部科学技術省」という官庁の、である。そこでは確実に官僚制一般の不透明性が拡大再生産され、大学は今以上に自由な研究環境を求めて海外に流出する頭脳の残り滓の場所となってしまう。つまり、この列島の知的な空洞化が促進され、ますます冴えない居住空間となっていってしまうわけである。

 「独法化」だけは誰がどう考えても最悪の選択であり、阻止すべき選択肢である。国立大学を「独法化」するぐらいなら、まず文部省をこそ独立行政法人にでもすべきだろう。

 この問題には無関心な人々にも、「独法化」とはどういうリスクがある選択肢なのかということを、イメージとして伝えられたらと思う。くれぐれも、1969年の「大学解体」がこんなかたちで現実化したなどという非現実的な夢想は、冗談だけにしておいて欲しい。いかなるポリシーも(諜報とすら訳されうる)インテリジェンスもない蛮行によって、将来のいかなる社会構成・人種構成であるかもわからない日本列島上に住む世代に受け渡すべき文化的インフラの一切を、たらいの水とともに赤子まで流し去ってしまってはならないのである。

 だが、問題は国立大学に対する不評にこそあるのではないか。それはそうである。しかし、何が不満で問題なのか。じつに複雑極まりないはずではないか。「市場」の魔法に委ねることで、エコエコアザラクと呪文をかけたかのように複雑な問題群が解決するわけもない。つまり、市場原理主義の発想に立つ限りでは、せっかくの私学化の発想も不毛にしかすぎない。もちろん、「市場」の効率性を活用することに吝かである必要はない。しかし、それは何かの薬品の有効性を活用するのと同じであって、ごく限定された場合にしか有効ではない。そういったことは、さまざまな流派の理論経済学が解明し尽くしているところである。市場に委ねたのでは供給価格が高くつきすぎるが、社会的なニーズとして低廉に供給したほうがいいと考えられたものは、公共財・公共サービスとして税金を使って供給する。だから、東京大学などの旧帝大などは私学化したほうが明らかに効率的だとしても、茨城大学のような地方国立大学はそうはならない。現に米国では、ハーバード大学など学費300万円もする私学と、低廉な州立大学(日本の地方国立大学に相当)が棲み分けしている。

 そんなことも無視して市場原理を万能薬のように信仰するものは、「市場原理主義」と揶揄されてしかるべきである。しかし、揶揄され馬鹿にされるに値するイデオロギーだからこそ、それが現実力に転化したときにはおぞましい結果を招来する。そうしたことは、20世紀にはナチスの政権獲得によって余すところなく示された。「中世暗黒時代」が再現され、「啓蒙の近代」への自信喪失が根深くもたらされることとなった。ところで、本物の「中世暗黒時代」とはどんな時代だったか。いうまでもなく古典古代ギリシア・ローマの豊饒な文明や哲学の光明を「異教」として弾圧した後にやってきた、宗教原理主義的な暗闇の時代であった。その暗闇の蔭で旧約聖書の民への迫害によって満たされる人々のカタルシスが正当化されもしたのであった。

 古代ローマ帝国において象徴的な事態は、当時のキリスト教原理主義の国教化により、プラトン以来千年の歴史を誇ったアカデメイアがついに六世紀頃に閉鎖されてしまったことである。その時から、「それでも地球は丸い」というガリレオの宗教裁判の時まで、やはり千年以上の歳月が学問にとって空しく過ぎ去った。そのキリスト教も、やがて自由な学問の光明と共存する境地に達して、「啓蒙の近代」が明けそめ得た。しかし、キリスト教原理主義は、実際に千年(ミレニアム!)以上にもわたり人間の知的営為を暗闇に閉じ込め続けることができたのである。「市場」も効率性を発揮する限りでは良きものであるが、「市場原理主義」が何をもたらしうるのかについては、われわれは確かに想像の恐怖感を喚起してよいと思う。

 「独法化」をめぐる私の個人的な考えは、国立大学を十把一絡げにして議論することは混乱のもとだということである。なぜならすでに述べたように、東大型はハーバード大学をめざして私学化してよいのだし、茨大型は米国の州立大学のように低廉な高等教育を公共財・公共サービスとして税金を使って供給することに、社会的なニーズがあるからである。そこのところを隠蔽して国立大学群が「幻想的共同性」に包まれるとき、最後に弊履の如くに捨て去られるのは誰か

 しかし、私学・官学・「独立行政法人」などいかなる形態であれ、そもそも高等教育・研究への公的財政支出の割合が、ドイツに比べて半分しかないという知的惨状に立ち向かうためには、幻想的でないリアルな共通利害の摘出による統一戦線の構築こそが必要であろう。(立花隆氏ほどの科学ジャーナリストさえ『科学技術白書』の瞞着にみちた図表に眩惑され、日本の研究費を巡る環境はすでに世界最高水準だから、今後は厳しい競争こそが必要だと錯覚しているほど危機的な認識状況がある。) 

(アソシエ21 ニューズレター 2000.3

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